大野敬正 Ōno Keishō @Japan Expo Sud (2011-02-26) 2-3
アップロード日: 2011/04/03
Keisho Ohno (大野敬正) - Seiya! (Kamome Tour Toulouse 3.3.2011)
アップロード日: 2011/03/03
『
JB Press 2013.07.11(木) 岩澤 里美:
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38166
ヨーロッパを津軽三味線で熱狂させる男、大野敬正
渡欧で深まった日本への愛情を、ロック調&正統派の調べに込める
音楽は国境を超える、とはよく言われること。
けれど、あの独特な音色を放つ日本の楽器、三味線は西洋の人たちに受け入れられるのだろうか。
2013年3月に欧州で先行発売した大野敬正さんのアルバム『SPARK』。
欧州での待望の2作目。
ネット配信もしている(写真提供すべて Honky Monkey Music/THK INC.)
和の文化への関心が年々高まっているヨーロッパでそんなことをずっと考えていたある日、風の噂で「すごい三味線奏者がいる」と耳にした。
パリと日本に拠点を置いて活動を広げる大野敬正(おおの・けいしょう)だ。
今年3月末、大野はヨーロッパでアルバム2作を同時リリースした。
北はスウェーデン、南はギリシャ、西はポルトガル、東はルーマニアと、ヨーロッパ縦断・横断ツアーも開催して、三味線の魅力をより多くの人に伝えている。
三味線の歴史で、こんなにも地道にヨーロッパで活動をしてきた奏者はかつていなかった。
パリで、その人となりにぐっと迫ってみた。(文中敬称略)
■点の活動ではなく、線の活動で三味線を知ってもらう
大野は現在37歳。いま、1年の約半分をヨーロッパで過ごし演奏に励んでいる。
大野は、14歳にして津軽三味線の大家、初代・高橋竹山に認められ、「竹山節本流継承者」となった正真正銘の津軽三味線奏者だ。
20代後半から津軽三味線による活動を本格的に開始し、日本でアルバムを作ったり、テレビやラジオに出演したり、舞台音楽を担当したりしていた。
ダイナミックな津軽三味線演奏で大活躍する大野敬正さん。
約半年を欧州で、残り半年を日本で過ごす。
日本では関西を中心にイベントを多数開催
そして2006年に全米ツアーを行い、2008年にはヨーロッパでも2か国7公演のツアーを実施した。
伝統的な曲だけでなく、シンセサイザーやドラムを組み合わせた現代風の曲も披露。
反響が高く、もっと海外で活動してみたいという興味がわき上がった。
「津軽三味線は海外でも受け入れられそうだと手ごたえを感じました。
アメリカとヨーロッパで演奏してみて、どちらもとても楽しかったです。
でも土台を日本において、アメリカでもヨーロッパでも活動したら、すべてがおろそかになってしまう。
それで、自分にとってしっくりと感じたヨーロッパを選んだのです。
アメリカはアメリカンドリームと言われるように、膨大な数のファンを持てる可能性はあります。
でもコンサートでのヨーロッパの人たちの反応が日本の人たちの反応に似ていて、それが心地よくて自然とヨーロッパに向いた感じがします。
ヨーロッパはクラシック音楽が生まれた場所です。
いろいろな音楽を受け入れる土壌ができている、演奏をしっかりと聞いてくれるという印象を持ちました。
僕はコンサートで相当派手な動きもします。
おそらく僕ほど豪快に弾いて、目でも楽しんでもらおうという奏者はいないと思います。
でも僕の三味線は単なるエンターテインメントではありません。
伝統を守りながら発展させている音楽なのです」
大野は、翌2009年以降もヨーロッパでツアーを開催し続けている。
2年前にはヨーロッパで初のアルバム『鴎 KAMOME』を発売した。
今年3月には、写真の2作も発売したばかりだ。
すでにたくさんの国を回ったが、まだ訪れていない国も都市もある。
「行ってみたい場所はたくさんあります。
日程の調整がつかなくて、すぐに実現するのは難しいのですが、同じ場所に偏らないようにしています。
いつも同じ場所だと、それは点を残す活動です。
僕が目指すのは点と点を結ぶ線を引く活動なのです。
演奏した場所を結んでいくと線になる。
その線が増えてやがて面になる。
そうやってヨーロッパ中に津軽三味線のことを伝えていきたいのです。
これまでに、日本から三味線奏者がときどきヨーロッパに来て演奏をしたことはあります。初代・高橋竹山も昔パリで演奏したんですよ。
でも、それらは点であって線ではなかった。
だから、僕が数年前に腰を据えてヨーロッパでも活動していこうと決めたとき、三味線という楽器があまりにも知られていなくて、正直びっくりしたのです」
■「日本が好き! だから三味線」というヨーロッパの人々
「初めのころは、ここヨーロッパで、どうやったら三味線という楽器の魅力を伝えられるのだろうかと戸惑いました。
うまく伝わらなかったらどうしようかと不安にもなりました。
津軽三味線は叩きながら弾くので、音に迫力があってとても爽快です。
メロディーもリズムも分かり易いので、音楽としては親しみやすいのです。
でも伝統的な曲だけを演奏していては、ヨーロッパで三味線のファンは増えません。
だから、僕はオリジナルの曲を作ることにこだわります。
僕がロック調で三味線を演奏することは、津軽三味線の歴史にとっては革命です。
ですから日本の先輩たち、大御所たちにはあまり良い姿には映らなかったようです。
でも僕の目的は自分が奏者として有名になることではなく、あくまでもヨーロッパで三味線を広めることにあります。
苦言を呈されてもやめようとは思いませんでした。
いまでは、ここで三味線が段々と知られてファンも増えてきて、否定的だった人たちが僕の活動を認めてくれています。
コンサートでは、リズムを取ってみんなが一斉に体を左右に揺らしたり、かなりご年配の方たちが曲に合わせて踊ったりするんですよ。
子どもたちだって、大人と一緒になって掛け声を上げます。
初めてコンサートを開いた都市でも、弾いていると観客がこの曲を知っていると分かることがあります。
みんな、事前にCDを聞いてくれているのだと思います。
そういう姿を見るようになって、とてもうれしいですね」
三味線の魅力はもう1つある。
それは、やはり日本の楽器だということだ。
「長髪スタイルと着物姿で演奏するのは、少し武士を意識しています。
足を運んでくれたお客さんたちに日本をより身近に感じてもらいたいからです。
日本に興味があるので、僕のコンサートに行ってみようとかCDを買ってくれる人もたくさんいます」
大野が日本らしさを醸し出すのは外見だけではない。中身も、前よりももっと日本らしさにあふれるようになった。
「こちらに来てから、日本への愛情が強くなりましたね。
僕の世代は、日本より外国の方がやや優れているというふうに見がちな時代に育ってきました。
それが、日本の食文化をはじめとして日本がとても好きだというヨーロッパの人たちをたくさん見ることで、自分が日本で生まれ育ったことをすごく誇りに思うようになりました。
それに、こちらの人は自分の町や国をとても愛していて、そういう姿勢で僕も日本への思い入れを深めていいのだと気づきました。
同時に、自分が日本のことをよく知らないと気がついたのです。
日本の歴史とか侍とか茶道について尋ねられることが非常に多くて、でもそれにきちんと答えられなかったのです。
これは学ばなくてはダメだと思い、いろいろと勉強しました」
■津軽三味線に惚れた、珍しい子どもだった
津軽三味線は大野の体の一部のようなものだ。
いつでも、どこにいても三味線と共に過ごしている。
では何がきっかけで、津軽三味線にそれほど惹きつけられたのだろうか。
大野が三味線の世界にふれたのは、小学校に入ったころだった。
母親が週1回のレッスンに通って、趣味で三味線を弾いていた。
家で練習する様子を見聞きして「変わった音がするな」と思っていたという。
三味線に惹かれ始めたのは、母親の通っていた三味線教室で発表会があって見に行ったときからだ。
舞台で響く迫力ある津軽三味線の音色に圧倒され「これは自分でやってみたい!」と心が動いた。
●大野さんは8歳で稽古をスタートした。
写真は初めてのレッスンにて。
女性は恩師の高橋竹栄さん(大家、高橋竹山の直弟子)。
それ以前に母親が三味線を習う様子を見続けていて、自分も早く教わりたくて仕方なかったそう
「僕の様子を見て、母は僕にも習わせてみようと思いました。
でも師匠の高橋竹栄(高橋竹山の直弟子)はそうしましょうとは言わなかったんです。
子どもが三味線を習い始めても、続かないだろうという気持ちが強くて。
いまは津軽三味線の全国大会が日本で企画されていて、10代の若い人たちでも三味線を趣味としている人がぐんと増えました。
でも僕が子どものころは、今のような状況になるなんて想像がつかないほど、子どもの習い事として三味線はまれでした。
師匠は、三味線を本気で習いたいなんていう子どもはいないと思ったのです」
「断られたので、僕は三味線を触って教わることはしませんでした。
でも母のレッスンには毎週欠かさずついていきました。
そうやって見て学ぶことは続けました。
とても楽しそうだったし、まなざしはいつも真剣だったと母から聞いています。
それで師匠が、こんなに好きならやらせてみようかと考えが変わったのです」
こうして大野は、8歳にして念願の津軽三味線の稽古を始めた。
好きで仕方なかった、早く習いたくて仕方なかった津軽三味線の弾き方を、大野は水を得た魚のように習得していった。
しかも三味線は、すでにそのころから大野の一生を決定する存在になっていたようだ。
「僕には、師匠の竹栄にずっと学んでいた兄弟子がいました。
彼はのちに、高校を卒業して竹山に師事しましたが、彼を見て、少し大きくなったときの自分をときどき想像しました。
僕はまだ自分の実力を客観的に見ることはできなかったけれど、その兄弟子のようにずっと続けていけたらいいな、将来、三味線を演奏して食べていけたらいいなと期待していたのを覚えています。
それが10歳くらいのことだったでしょうか」
10歳にして、将来を見据えていたとは。
大野は、まさに三味線奏者になるべく生を授かった人だと言っても過言ではない。
■三味線屋がヨーロッパに開店したら、うれしい
チャンスを見つけ、子どもたちにも演奏を披露する大野さん。
馴染みの薄い不思議な音楽に、「目を閉じて演奏するのはどうしてですか」といった質問も飛び出す
大野がかなえたい願いはたくさんある。
中でも究極の願いは、パリで三味線が買えるように三味線屋を開くことだという。
「僕は弾く方が専門ですので三味線を作ることはできません。
ですから三味線の職人さんを日本から連れてきて、お店を開いてもらってということができたらいいなと思います。
こちらに住んでいる人が、実物を手に取ってこちらで三味線が買える環境が整えば、三味線を弾いてみようという人が1人、2人と出てくると思うのです。
いまはまだ鑑賞するという段階ですが、そうやっていけば音楽の1分野として、ヨーロッパにも三味線が根付くでしょう。
僕が生きている間にそれを実現するのは、僕の仕事の1つだと考えています」
大野は前例のない道を歩んでいる。
その大野を見て、自分も海外に出て三味線の普及に努めたいという人が出てきたらどう感じるだろう。
大野を追い越すような新人が現れたとしたら。
「僕を目標にする新人が現れてほしいと思っています。僕も刺激を受けて、一緒に切磋琢磨できますから。三味線に毎日触るのは当然で、気がつくと朝から晩まで練習していたり、睡眠不足になってでも練習することもありますが、新人が出てきたら、僕はもっと磨きをかけたいとさらにエネルギーが出ると思います」
「僕には三味線のゴールはありません。
コンサートもCDもそのときの自分の力を出し切っていますが、評価されればされるほど、もっと良いものを作っていこうという気持ちがわき上がってくるのです。
実は、僕に憧れて、僕のように新しい三味線を海外で打ち出したいという子どもが数人、日本にすでにいるということを耳にしています。
プロとして育ってくれればと願いますね。
僕のヨーロッパでの活動を、そういう新人たちが引き継いでくれるかもしれません。
ただし、新しいことにチャレンジしていくのは大変なことだよ、というのはアドバイスしたいですね」
生まれながらの三味線奏者とも見え、開拓者として「成功の階段」を上り始めた大野ではあるが、未知の世界で最高の状態を維持していくことは、決して簡単ではないと認識している。
「僕はランニングが息抜きです。
健康に良いということもありますが、それ以上に心に効果をもたらしていると思います。
ここからここまでと一定の距離を走ると、ゴールを切って達成したと目で見て分かりますよね。
先ほども言いましたが、僕の三味線人生にはゴールがないので、大変だと思わないと言ったら噓になります。
ランニングでゴールを切る小さな達成感を味わって、心のバランスを取っているのだと思います」
■不自由さの中にわざと身を置いて、精進したい
私はインタビューの間、この人はなんて素晴らしいのだと随所で感銘していた。
音楽や美術という芸術の世界では、自分はすごいのだと、とにかく名を馳せたいと願う人は珍しくない。
大野の話を聞いていると、有名になることよりも、三味線を知ってもらいたい、日本をもっと好きになってもらいたいという気持ちの方が何倍も強いのが分かった。
特に心を打たれたのは、大野が津軽三味線の神髄を自分の中にしっかりと培っている点だ。
「極言すると、僕は日本での活動だけで暮らしていくことはできると思います。
でも、日本にいたら言葉にしても食事にしても常に満たされた状態です。
それが海外だと言葉は完璧ではないし、電車の切符1枚買うにしても戸惑うこともある、日常生活をしていて何かしらつまずくわけです。
コンサートも同じことが言えます。
三味線は日本の気候のように適度な湿度が必要で、乾燥しているとパリパリとした音になってしまいます。
その音だと、曲に情感が出ないのです。
ヨーロッパやアフリカの気候は日本とは違うので、日本にいるときと同じ音を出すには工夫がいるのです」
「そうやって自分に不都合を生じさせるところに身を置いて、日々体験したり感じたりすることは、とても大切なことだと思います。
津軽地方で発達した津軽三味線演奏は、元々は男性視覚障害の人がしていた門付け(かどづけ)芸でした。
門付けというのは、各家の門前で三味線を弾いてお米をもらうという行為です。
門付けは蔑まれていましたが、当時は男性視覚障害の人たちは職業の選択ができず、マッサージ師か門付け芸人になるか以外には生きていく道がなかったと言われています。
門付けで生きていた人たちは、きっと心理的につらかったでしょう。
でも、何としてでも生きなくてはというエネルギーで自分を支えていた。
だから、僕もあえて自分に不自由さを課したい。
ヨーロッパに住んで嫌だな、不快だなという体験をすることで、昔の津軽三味線奏者たちの魂とつながれる気がするのです。
津軽三味線という楽器には、《この世に生まれて社会の中で1人の人間として生きているんだ!》というそういった人たちの強さが宿っているように僕は思うし、この原点の意味を消したくない。
楽器として音楽としての魅力はもちろんですが、彼らの魂の叫びも時間と空間を超えたところから現代に伝えていきたいのです。
そこには僕自身の魂の叫びも込めています。何も飾らない、自分のありのままの心を出そうと思いながらいつも演奏しています」
三味線に命を懸けている。
この人なら、きっと追いつかれることはない。
追い越されることもない。開拓者として、どこまでも先頭を走っていくに違いない。
岩澤 里美 Satomi Iwasawa
雑誌編集、英国留学を経て、2001年よりスイス在。月66万部発行のJALファーストクラス機内誌『Agora』、環境ビジネス誌『オルタナ』などにスイスの話題を中心に寄稿。世界の最新ビジネスは、欧州ほかアメリカも多数取材している。在外ジャーナリスト協会「Global Press」副理事。
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[PV] Keisho Ohno(大野敬正) |YOAKE
[Live] Keisho Ohno(大野敬正)|JP LiveTour '09 "三味線維新"
[Live] Keisho Ohno(大野敬正)|Japan Live '08 in Kyoto
【そこそこ、ほどほど】
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